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ninemillion.org 難民問題スペシャルレポート 目次

 

第 1 回  ネパール
ネパールのブータン難民キャンプの現場から
UNHCR ネパール・ダマク事務所長 根本かおる
第 2 回  スーダン
難民の帰還が進むスーダン南部にて
UNHCR 駐日事務所 駐日代表補佐官 上月光
第 3 回  ザンビア
ザンビアでのアンゴラ難民の帰還
UNHCR 駐日事務所 広報アドバイザー 千田悦子
第 4 回  ソマリア
ソマリア難民キャンプ
特定非営利活動法人 日本 UNHCR 協会 山崎玲子
第 5 回  タイ & ネパール
日本からの心を届け、笑顔を持ち帰る。
UNHCR 駐日事務所 広報官 守屋由紀
第 6 回  スーダン
ダルフールの国内避難民
UNHCR スーダン・ザレンジ事務所 保護官  帯刀豊

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第 1 回 ネパール

ネパールのブータン難民キャンプの現場から

UNHCR ネパール・ダマク事務所長 根本かおる

私の「仕事場」はネパール東南端の難民キャンプ。ネパール系のブータン難民 10 万 6 千人が、「ヒマラヤ」のイメージの強いネパールにジャングルを開墾して造った 7 つのキャンプで 16 年にもわたる難民生活を強いられています。

難民たちは、竹で編んだ小さな小屋に身を寄せ合って暮らし、配給食糧の米を主食としています。人口は自然増加しているもののキャンプ用地はそのままなので、年を追ってキャンプでは過密化が進んでいます。

(c) UNHCR 難民の人たちは、竹で編んだ小屋で暮らす
(c) UNHCR 難民の人たちは、
竹で編んだ小屋で暮らす

19 世紀後半から 20 世紀初めに経済的な理由から多くの人々がネパールからブータン南部に移住し、ブータン国籍を取得するに至りました。しかし、ネパール語を話しヒンズー教徒中心のネパール系の人々は、仏教徒の主流派ブータン人とは民族的にも宗教的にも異なり、80 年代からとられた民族主義的政策の結果、ネパール系の人々は国籍を失い、90 年代初頭大量にネパールに流入。ブータン政府に対する民主化要求行動も、多くのネパール系ブータン人の国外追放という結果をもたらしました。

(c) UNHCR 難民の人たちとの青空対話集会の様子
(c) UNHCR 難民の人たちとの
青空対話集会の様子

かれこれ 16 年も経てば、キャンプはまるで典型的なネパールの町のよう。学校もあれば、診療所もある。集会所もあれば、障害児を預ける託児所もある。すべて UNHCR の支援でつくられたものです。ブータン難民はネパールでは就労権が認められていないため、国際社会からの支援に依存せざるを得ません。UNHCR は、ネパール政府当局や NGO パートナーらと連携しながら、これら難民の権利を保護し、住居、食糧、水・衛生、保健・医療、教育などの面での支援物資・サービスの提供、および難民問題の恒久的解決の模索を担っています。

(c) UNHCR 難民の人たちの登録作業再登録のための聞き取り調査
(c) UNHCR 難民の人たちの登録作業
再登録のための聞き取り調査

キャンプに暮らすブータン難民全員の状況把握をかねた「難民再登録」の作業がようやく昨年 11 月に開始しました。UNHCR とネパール政府による今年春までの共同事業で、約 50 人の再登録作業専従スタッフが、一日あたり約 1,500 人の難民の聞き取り調査と写真撮影、データ入力にあたっています。

90 年代初めの到着時に政府が難民の登録作業を行い、その後順次出生、死亡、婚姻、離婚などを記録してはいるものの、10 万 6 千人全体について基本情報をアップデートし、データベース化するという作業はこれが初めて。難民の安全を守り、適切に保護し支援するためには、一人一人がどこの誰で、どういう家族構成で、どういうニーズを抱えているのか把握する必要があります。

(c) UNHCR 再登録のために、一人ずつ写真撮影
(c) UNHCR 再登録のために、
一人ずつ写真撮影


また、一人一人写真を撮り、のちに写真入りの ID カードを発行する計画です。写真を撮るのに飛び切りのおしゃれをしてやってくる老人や、カメラの前で緊張して泣き出してしまう子どももいます。庇護国からの身分証明書は、自国政府から保護が期待できない難民を保護する上で欠かせません。

(c) UNHCR 難民の女性リーダーと(左が著者)
(c) UNHCR 難民の女性リーダーと
(左が著者)

難民再登録事業の実現は、ネパール政府との粘り強い交渉も含め、様々な関係者による努力のたまものです。ブータンへの帰還 (わずかながらではありますが) やアメリカなどへの第三国定住など、解決への兆しが少しずつ出てきている中で、この画期的な事業の現場をあずかる事務所の所長でいられるというのは幸いなことです。

16 年という長期にわたる難民生活にもかかわらず希望を捨てずに前向きな姿勢を保っている難民たちからエネルギーを分けてもらいながら、様々な国籍の 50 人の事務所スタッフとともに支援活動にあたっています。

このコラムは安倍内閣メールマガジン(第13号 2007/01/18)に掲載されたものを、内閣官房内閣広報室およびUNHCRの許可を得て転載したものです。

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第 2 回 スーダン

難民の帰還が進むスーダン南部にて

UNHCR 駐日事務所 駐日代表補佐官 上月光 (こうづきひかる)

みなさんこんにちは、UNHCR 駐日事務所の上月です。2006 年の 11 月に、日本の NGO のメンバーの方々と、アフリカのスーダン南部 (地図参照) に視察に行ってまいりました。スーダンの南部では、1983 年から 20 年余にわたる南北内戦の結果、約 50 万人の難民と約 380 万人の国内避難民が発生しました。2005 年 1 月に南北包括和平合意 (CPA) が署名され、これから多くの難民、国内避難民がスーダン南部に帰還し、生活の再建が進んでゆきます。このスーダン南部には、日本の NGO の皆さんも難民・国内避難民の帰還・再統合事業に係わってらっしゃいます。ピースウィンズ・ジャパン、ワールド・ビジョン・ジャパン、ADRA ジャパン、日本国際ボランティア協会、難民を助ける会、JEN などの NGO が UNHCR と協力し事業を展開してゆく一方、日本政府も昨年 12 月に、UNHCR を通じてスーダン南部への難民・国内避難民の帰還事業に対し、1200 万ドルの緊急無償資金を提供しています。今後、日本と UNHCR とのスーダン南部での様々な連携から目がはなせません。


マラカルで宿泊した UNMIS アムザール・キャンプの宿泊用テント
(c) UNHCR/H.Kozuki


マラカルの UNMIS アムザール・キャンプに駐屯するインドの士官とキャンプのおじさんと。
(c) UNHCR/H.Kozuki


マラカルで宿泊した UNMIS アムザール・キャンプの宿泊用テント内の私のベッド。
蚊帳は日本から持ってゆきました。
(c) UNHCR/H.Kozuki


マラカルの町のはずれはこんな感じでした。
(c) UNHCR/H.Kozuki

私は、スーダン南部の中心的都市といえるジュバと、アッパーナイル州の州都マラカルを訪問してきました。

マラカルにたどり着くまでに、エミレーツ航空で羽田から関空経由でアラブ首長国連邦のドバイに飛び、そこからエミレーツでさらにケニヤのナイロビ、ナイロビからジュバへはケニヤの航空会社の飛行機で、さらにジュバからマラカルへは国連機で移動と、かなりの時間をかけてたどり着きました。

マラカルは、エチオピアとの国境に近く、UNHCR ではエチオピアからスーダン南部へ 2007 年中におよそ 2 万人の難民の帰還を支援する予定でいます。ジュバはウガンダ国境に近いですが、英語が話されてました。マラカルはスーダン南部の中ではかなり北に位置し、人々はアラビア語を話しているケースが多かったです。ディンカ族と呼ばれる方々が多く住んでいる町でしたが、皆さん背が高く、陽気で、とくに子供達は笑顔が絶えなかったのが印象的です。これから復興に向けて試練が待ち構えているでしょうが、人々の前向きな表情を見て、こちらがむしろ励まされました。

マラカルは牧歌的なところで、民間の宿泊施設のようなものもなく、私達は UNMIS (国連スーダン ミッション) のインドやバングラデシュの兵士達が駐屯するアムザール・キャンプにお世話になりました。

キャンプでは、テントで寝泊りをしましたが、ベッドと扇風機があり、それなりに快適でした。雨季が終わったばかりで、蚊も結構とんでましたので、マラリア対策に虫除けスプレーや蚊取り線香、寝るときは蚊帳を使いました。実際には結構蚊に刺されましたが、特に熱も出さずに帰ってきました。マラリア対策に「抗マラリア剤」を週に 1 回飲んでいたのですが、その副作用の方が大変でした。副作用も人それぞれかと思いますが、薬の箱の副作用に関する注意書きに「悪夢」とありました。半信半疑でしたが、なるほど三日続けてすさまじい悪夢にうなされました。「マラカルから帰る飛行機で自分の足元の床が抜ける」夢や、「地下鉄のホームから線路におっこちる」夢など、悪夢のオンパレードでした。

さて、マラカルに帰還してくる難民・国内避難民の方々についてそろそろご説明しましょう。このマラカルは、白ナイル川に面した町で、国内避難民の多くは、ナイルを船に乗ってマラカル河川港までやってきて、そこからそれぞれの町へと帰還してゆきます。その為、マラカル港が地元民と帰還民で混雑することが予想され、UNHCR とパートナーの NGO は地元民や帰還民にとって有益な簡易トイレの建設を港で進めていました。

UNHCR ではエチオピアの難民キャンプから陸路で難民の方々をマラカルまで移送し、それぞれの出身地などに帰還してゆく難民の人たちは、一度マラカルで数日滞在します。その為の帰還民一時滞在所 (Way Station) の建設、運営を UNHCR とパートナーの NGO が実施します。72 時間まで滞在できるこの施設で、当面の生活物資や食料、健康に懸念のある人たちへのケアなどを行います。その建設地を訪問してきましたが、コンクリートの床の大きな建物に雑魚寝することを考えると、帰還民がおかれる環境は出だしからかなり厳しいものだと感じました。

また、UNHCR では他の国連機関や地元の大学や NGO などと協力し、帰還民の女性や女子に対する性的虐待 (sexual and gender based violence, SGBV) を予防、対処する為の事業も行っています。帰還民の中には、男性が内戦の中で亡くなっているなどの理由で女性が中心となっている家族が多いのが現状です。また、長年の混乱と混沌の中で、絶望感などから家庭内暴力なども横行しているケースがあります。帰還民が、帰還先で新たな生活を立ち上げる中、行政執行能力がまだまだ脆弱な地域では、女性や少女が性的暴力に対し訴え出る仕組みも無かったりします。ちょうどマラカルを訪問したときに、UNHCR と UNICEF、地元 NGO と地元大学が中心になって、マラカルの帰還民の女性、地元の警察や軍、地元コミュニティの長老、役所の人たちを招いて、SGBV についての予防と対策を考えるワークショップが行われており、見学のつもりが、グループ ディスカッションに加わる結果となりました。内戦の後の社会的、精神的荒廃は、女性に対する暴力などの形で長くにわたって負の遺産を残すのだと、学ばされたと同時に、警察や軍、長老など、男性も積極的にワークショップに参加している姿を見て、彼らがより良い社会を再建しようと真剣になっているのが、ひしひしと伝わってきました。


アッパーナイル州マラカルの河川港に
UNHCR の NGO パートナーが
建設中の公衆トイレ。
ハルツームからの国内避難民の帰還で
混雑するマラカル港に隣接する。
(c) UNHCR/H.Kozuki


マラカルの Way Station 予定地
(c) UNHCR/H.Kozuki


マラカルの Way Station 予定地の
外で遊ぶ子供達
(c) UNHCR/H.Kozuki


UNHCR, UNICEF, Upper Nile University
共催の SGBV に関する
ワークショップにて。
皆さん着飾って参加されていました。
(c) UNHCR/H.Kozuki

これから雨季に入るスーダン南部ですが、きっと次の乾季にはより一層の順調な帰還が進むだろうと期待しています。

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第 3 回 ザンビア

ザンビアでのアンゴラ難民の帰還

UNHCR 駐日事務所 広報アドバイザー 千田悦子
(元 UNHCR ザンビア 帰還担当官)

2003 年 8 月から 2004 年 9 月まで、私はザンビアのモング事務所で帰還担当官として、アンゴラ難民の帰還に明け暮れました。モング事務所は、マヘバおよびマユクワユクワという 2 つのセツルメント、そしてナンゲシの難民キャンプと言う全部で 3 つの難民サイトを、ソルウェジ、カオマ、ナンゲシという 3 つのフィールド事務所を使って統括していました。上記 2 箇所をなぜセツルメントと呼んでいたかというと、3 分の 1 以上の人がザンビア政府から借り上げた土地で農業を営み、(収穫期二回の後は) 食糧配給を受けずに自立して生きていたからです。


(c) R.Hakozaki/UNHCR

アンゴラの難民・移住民達は、ザンベジ川沿いでない高い土地でも生産性をあげられる農業技術をザンビアにもたらしました。実際、とうもろこしの収穫のシーズンになると、マユクワユクワとマヘバからは、とうもろこしを外に売りに行くトラックが頻繁に往来していました。

マユクワユクワ (Mayukwayukwa) は 1966 年に設立された、アフリカで一番古くから続いている難民居住地です。アンゴラの独立戦争が激化して沢山の人達が逃げて来て以来、難民は増え続け、私の赴任した 2003 年には 5 万人近くの難民が住んでいました。ごく小数のコンゴ人等を除いては、大部分がアンゴラの難民です。

アンゴラでは、1975 年の独立後も内戦は続き、2002 年 2 月に反政府勢力の中心ジョナス・サビンビ氏が戦死して、漸く実効のある休戦条約が結ばれ、終戦を迎えました。アンゴラは、地雷の埋蔵数が世界一で総数 2000 万個 (カンボジアの 4 倍) といわれ、国土はまさに焦土と化していました (初めて難民をエスコートして飛行機でルンバランギンボに着いた時は、家の銃弾の跡や地雷原の大きさに、ただただ驚きました)。

そのために、大きなトラックやバスが通っても安全とわかっているマヘバからアンゴラの 800 km 以上離れたカゾンボまでの陸路以外は、難民に安全に帰還してもらうためには飛行機しかありませんでした。船による水路を使っての帰還も含めて検討しましたが、実践的ではなかったのです。

30 年以上難民だった人達が、自分の国へ、喜びの歌を歌いながら帰って行く! それはそれは、興奮いっぱいの得ることの多い仕事でした。

私が一番最初に指揮をとった仕事は、月曜日の朝までにルンバランギンボへ帰還する難民を 3000 人以上登録すること。木曜日の夜遅く、上司からの電話での指示でした。私に与えられたチームは、ドライバーも含めて 5 人の地元スタッフと 11 人の 2 日前に雇ったばかりの新入りのザンビア人スタッフ達。金曜日にキャンプで難民達を集めて説明会を開き、ルンバランギンボ出身者の多い地区を重点的に回って帰国希望者を募るという方法で、土曜日と日曜日の 2 日間で 7000 人以上の帰還希望者を登録しました。照りつける日の下、子供も大人も疲れきり、戦場さながらでした。
帰還希望者を登録するのにも時間がかかりますが、実際の帰還の調整はさらに大事です。


(c) R.Hakozaki/UNHCR

前日から荷物をトラックに積んで人々に出発所で帰国登録、出発手続き (食料配給カードの変換、乗車名簿の作成等) をしてもらい、そのために前日は夜中の 3 時、4 時ということもしばしば。マユクワユクワからカゾンボ方面に帰る人達は、人はバス、荷物はトラックに積んで、1 日 600 km 以上の道のり。途中の首都のルサカにある若者の施設を貸切で宿泊場にし、朝の 7 時にそこを出てマヘバに夜中の 12 時過ぎについたこともありました。途中は悪路、トイレは草むらをかき分けてのこともしばしば。多い時は、1000 人以上をバスで、その荷物をトラックで、20 台以上の隊列になります。途中で像やカバの横切る国立公園内も通らなくてはいけない上に、暗闇の中で寝そべっていた牛をバスが轢いてしまったり、お母さんのひざの上で子供がおねしょをしたり、それから初めての長旅にバスに酔う人も。窓からポイ捨ても、口で言っても直りません。出産のケースすら数件ありました (移動中ではありませんでしたので、念のため)。

マヘバについた難民が翌朝出発すると、また 1200 km 以上を 2 日かけてマユクワユクワのある地域まで陸路で帰ります。途中のトイレ休憩で難民と共に蛇を恐れつつ草むらを掻き分けて人目を避けたことも、今では楽しい思い出です。
それでも、何台も並ぶバスとトラックの編隊の中から響き渡る、人々の歌声は圧巻でした。
自分の国に帰れる、嬉しいと歌っているんだよ、と難民が教えてくれました。みんなに感謝をする歌なども、即興で出てくるのです。

飛行機は、飛行場まで人を連れてくるのが一仕事です。飛行機はコストが非常に高いので、飛行機を完全にいっぱいにして飛ばさなければなりません。でも、飛行場についてから気分が悪くなったり、病気になる人もいます。荷物制限があるので、飛行場で長く駐留してもらうことができません。飛行機をいっぱいにするぴったりの人数を運ぶのが、至難の業です。
ナンゲシキャンプからモングの飛行場までくるには、すごい悪路の上に、ザンベジ川を渡らなくてはいけません。渡し舟のすぐ横にカバが出てくることもしばしば。
ある時、ザンベジ川を渡るのに難民を先に出発させ、遅れをとった荷物トラック 2 台を私が責任を持って送り届けるため一人でトラックのドライバー達と残ったことがあります。やっと川を渡ったものの途中で悪路に埋まり、助けようとした同伴トラックまでが埋まってしまい、夜 10 時を過ぎてから一人のドライバーと共に数キロ離れた近くの町まで歩いて助けを求めに行きました。町に夜の 11 時半頃辿り着き、街で一軒だけ電話のあるホテルからモングへ電話を試みたのですが、結局通じませんでした。ドライバーがトラックに頼んで埋まった 2 台を助け出して私をホテルに迎えに来たときは、夜の 2 時過ぎでした。漸く朝の 5 時頃飛行機の出発に間に合って、空港まで荷物を届けることができたのでした。  
突然の暴風雨にアンゴラへの帰還飛行機を待つ空港へ様子を見に行くと、難民一時待機所のトタン屋根が吹き飛び、宿泊場所が水浸しで、すぐに難民を移動させなくてはならなかったこともありました。迎えの車が砂にはまり、空港まで歩いて出勤したこともありました。

緊急事態にいかに柔軟に対応し、問題を一つ一つ処理していくか。UNHCR の仕事は、とても challenging で、日本での生活・仕事からは考えられないようなことを日々解決していきます。でも、それだけ rewarding でもあります。

この難民達の歌声を、是非日本にいる皆さんにも聞いていただきたいと思います。アンゴラへ帰っていく難民達、中でも子供達の好奇心に満ちた顔! 以下のサイトでご覧になれます。

http://www.apic.or.jp/plaza/tv/kikan/UNHCR_angolan_e_100.html

を是非どうぞ!

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第 4 回 ソマリア

 

特定非営利活動法人 日本 UNHCR 協会 山崎玲子

ソマリアでは、長年の内戦により多くの人々がケニアに逃れ、16 年もの間過酷な避難生活を強いられています。昨年夏よりソマリアの内戦が激化し、新たな難民の流入にケニアのダダーブにある難民キャンプは緊急対応に追われています。加えて、昨年 11 月には大洪水が難民キャンプを襲い、住居や道路などのインフラは壊滅状態に陥りました。その状況を 4 月 9 日~ 11 日に視察してきました。

荒涼とした砂漠地帯に約 17 万人の難民が避難生活を強いられています。難民のほとんどがソマリアの内戦から逃れてきた人々です。後ろに見えるのは、木の枝で骨組みを作ったソマリア式の住居。
(c) 日本 UNHCR 協会
ソマリアから新たに流入した難民に、石けんなどの生活用品を支給する UNHCR 職員。
(c) UNHCR

内戦激化で難民が急増

2006 年夏からソマリアの内戦は激化し、隣国のケニアに逃れてくる人の数が日に日に増えていきました。ピーク時には、1 日に 1000 人もの人々がケニアとの国境に殺到し、UNHCR は新たに流入してきた難民のために、国境から難民キャンプまでの輸送トラックや、テント、医療、食糧、水の確保に職員一同奔走しました。キャンプはこの半年で新たに 3 万 4000 人のソマリア難民を受入れることになりました。危険を逃れてきた人々の命を守ることが最優先ですが、すでに難民キャンプの許容量を大きく上回っているため、今後の援助活動にはこれまで以上の資金が必要です。ソマリア国内では、1 万 2000 人以上の人々が国内避難民となっています。

ソマリアから国境を越えてケニアにたどりついた難民。UNHCR は、国境で迅速に難民の登録作業を行い、難民キャンプへ移送します。
(c) UNHCR
子ども一人を連れて難民キャンプに逃れてきた男性が登録作業を受けている様子。内戦により、妻は亡くなり、3 名の子どもは行方不明に。
(c) 日本 UNHCR 協会

大洪水で 6000 世帯の住居が壊滅

近年干ばつに悩まされていたダダーブを、昨年 11 月には大洪水が襲いました。ダダーブの町から難民キャンプまでの約 18 km の道は、1 ヶ月もの間使用できない状況に陥り、この間の援助物資は急遽空輸で行われました。6000 世帯の家や診療所、学校などが大洪水に流され、私が訪問していたときには、これらの被災者のための新しい難民キャンプを建設しているところでした。新しい難民キャンプは高地に作られ、毎年襲われる洪水の被害を最小限に留めるよう配慮されています。新たな住居や学校、診療所などを設置するために、炎天下、難民の人々も力をあわせて土木工事に汗を流していました。祖国を追われた難民が、今度は自然災害により難民キャンプの住居までも流され、さらなる避難を強いられている今の状況に胸の塞がる思いがしました。急遽増員された UNHCR 職員は、今もテントに住んで対応に追われています。

 大洪水で約 10 万人が被災し、2 万人以上の人々が住居を流されました。マラリア感染者と栄養失調に苦しむ子どもの数が急増し、UNHCR はその対応に追われました。
(c) UNHCR
赤道直下に位置するダダーブの難民キャンプでは、私の滞在中も気温が約 40 度まで上昇し、あまりの暑さに病人までもが建物の中にいることができず、外に寝ていたほどです。診療所の前で。
(c) 日本 UNHCR 協会

拡張される難民キャンプと悪化する環境問題

16 年が経過するダダーブの難民キャンプで、今最も深刻な問題となっているのは、環境問題です。電気もガスも通っていない難民キャンプでは、調理の煮炊きに焚き木を使用しています。従来は、難民自らがキャンプの周辺から焚き木を採ってきていましたが、約 17 万人の難民が日々使う焚き木の量は、年々深刻な環境問題に発展してきました。また一方で、何時間もかけて焚き木を集めに出かけていると、女性や子どもはレイプの被害に遭うことが多いという問題も抱えていました。そこで、1998 年より、UNHCR では、ケニアの地元民間業者から焚き木を購入し、難民キャンプで配給する方法に切り替えました。これにより、環境破壊を多少なりとも食い止めることができるようになり、また、レイプの被害件数は大幅に減少しました。しかし、たいへん厳しい財政状況の中、配給できる量は必要量の 30% にしかすぎません。太陽光で調理するソーラー クッカーも導入されていますが、とても不足分をまかなえる数量ではありません。あと何年難民キャンプでの避難生活は続くのでしょうか。今後は代替燃料を検討していかなければなりません。

月 1 回の焚き木の支給風景。
(c) 日本 UNHCR協会
食糧や焚き木の支給、医療を受けるとき、各世帯に配られているカードに穴が開けられます。
(c) 日本 UNHCR 協会

難民の将来は...

ソマリアの周辺国は、ソマリアの内戦が終結するよう努力を続けていますが、解決の目処はいっこうに立っていません。移動の自由もない、就労の機会もない、教育の機会もごくごく限られている...難民となった人々は、そのような厳しい状況を何年も生き抜いています。UNHCR は、初等教育 (8 年間) をすべての子どもに提供するようにしていますが、中等教育 (4 年間) を受けられるのは、ごくわずかです。なぜなら、難民キャンプはすでにパンク状態で、教育を充実させられるほどの財政的な余裕はまったくないからです。学校の壁には配給される食物油のブリキ缶が使用されており、暑い日には熱がこもって大変だと嘆いていました。
UNHCR の現地職員は、「もっと教室を増設し、教員を養成することができれば、過酷な避難生活の中でも、多くの子どもたちに生きる希望を与えることができます」と訴えていました。中等教育では、すべての教科の授業が英語で行われていました。彼らがこの先、国に帰ることができるようになったとき、また、どこか別の受入国で定住することになったとき、間違いなく大きな助けになるだろうと思いました。「もっと勉強を続けたい」という言葉に、なんとか応えられればと思います。子どもたちへの最大の贈り物は教育なのだとあらためて強く実感しました。

「もっと勉強を続けたい」
(c) 日本 UNHCR 協会

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第 5 回 タイ & ネパール

日本からの心を届け、笑顔を持ち帰る。

UNHCR 駐日事務所 広報官 守屋由紀

ご縁あって昨年 11 月と今年 2 月に株式会社ユニクロの CSR (企業の社会的責任) に日夜取り組まれているチームの方々とアジアにおける長期化した難民問題の象徴であるタイのミャンマー難民キャンプとネパールのブータン難民キャンプを訪問しました。これはユニクロの全国約 720 店舗で実施された全商品リサイクル活動で集荷した 14 万着のリユース (再利用) 衣類を手渡す目標達成の旅でもありました。

ユニクロと言えばおじいさんからお孫さんまで多くの皆さんに馴染みの深いブランドネーム。フリースのリサイクル活動やオリーブ基金などの活動を通じ、社会貢献や環境への配慮は広く知られていました。このたび試験回収を経て「全ての衣類、帽子やバッグなどのアクセサリーも含む全商品を店頭で回収し、リサイクル業者にて選別し、リユースに耐えうる衣類を国連難民機関 (UNHCR) の難民支援の現場に」とご提案いただいたのがはじめの一歩でした。

このページの読者の皆さんならばすでにご存知の通り、UNHCRは世界 116 ヶ国、262 の事務所にて 2100 万人の故郷を追われた難民、国内避難民、庇護希望者、帰還民などへの国際的保護をはじめ、食糧、水、住居、教育などの生活支援、さらに難民問題の恒久的な解決を模索しております。人道危機の状況が複雑になるにつれて UNHCR は受入れ国政府をはじめ、他の国際機関や 500 を超える NGO など多くのパートナーと共に活動しています。

UNHCR の活動に必要な資金はほぼ全額、各国政府からの任意拠出金と、企業、各種団体そして一般の人々など民間からの資金でまかなわれています。UNHCR の資金が予算を大幅に下回ることになると当初の計画も見直しを強いられます。本部を含め、世界各地の現場にこの影響は及び、優先順位の低い活動 (不必要とされる支援計画はもともとなく、人間の尊厳に関わる計画でも涙をのんで カットせざるを得ないことも多々ある) から見直し、中止、延期を余儀なく選択することになります。前置きが大変長くなりましたが、衣類の支援は UNHCR 難民現場にても多くの場合、手が行き届かない支援項目のひとつであることは事実です。但し、衣類などの物資を現場に届けるには必要とする場所に効率よく届けねばなりません。いくつかのハードルを乗り越えて実現に至ることになりました。

今回訪問した二つの異なる難民支援の現場には共通する点がいくつもあります。難民キャンプには故郷、家を追われて国境を越え、恒久的解決策が見出せないまま、10 年以上滞在していることです。双方とも混乱の最中にある緊急現場のキャンプではなく、一見ごく普通の「村」のようにも見えます。「村」の中には急ごしらえのテントが立ち並ぶのではなく、竹や木の枝で建てられ、隣近所と軒を連ね、さしずめ日本の昔の長屋のような風景が続きます。学校、グラウンド、診療所、職業訓練所と「村」人達が日々の生活を営む上で必要最低限のモノは揃っています。「村」には自治会が存在し、キャンプの外からの支援に頼りきっていることを除けば普通の村以上の運営ができているようにも見受けられました。

 タイ、タムヒンキャンプの長屋風な町並み
 写真提供:ユニクロ

普通の村とは明らかに違うことは多くの深刻な問題を抱えていることです。学校教育を修了しても、その先の学問を修得、あるいは仕事として活かすことが許されないのです。また恒久的解決として最も望ましい出身国 (ミャンマー、あるいはブータン) に戻ることも、庇護国 (タイ、あるいはネパール) に定住することもできない。難民キャンプという外の世界と一線を画した「村」の中で 恐らく多くの人々がフラストレーションを募らせていることでしょう。その事実として家庭内暴力 (DV) や、青年層の学校からのドロップアウトなど外の世界の縮図のような社会問題もはらんでいます。

このフラストレーションを解消すべく、また青年層が自分たちで実現可能な問題解決のためにスポーツが大きな役割を果たすのは言うまでもありません。ninemillion.org の撮影の現場ともなったタイのタムヒンキャンプには授業終了後にどこからともなくサッカー グラウンドに元気に集まる子どもたち。また彼らを指導する誇らしそうなお兄さんたち。ナイキ、マイクロソフト、ライト・トゥ・プレイの努力、並びにこの活動に賛同した世界各地の支援者の成果を目の当たりにしました。使いこなれたあの黄色と緑色のサッカー ボールも子どもたちとともにグラウンドの黄土色に馴染んでいました。

 タイ、タムヒンキャンプのグラウンド近くの更衣室に掲げられたメッセージ
 「全ての子どもには遊ぶ権利がある。」
 写真提供:ユニクロ

話題を衣類に戻しましょう。読者の皆さんは恐らく毎日何を着ようかクローゼットの前で悩んだりするのではないでしょうか。かく言う私もこのような贅沢な悩み、また自己表現実現の機会に毎日当たり前のように接しています。おしゃれをすることは楽しい食事をとることほぼ同等の喜びです。子どもの時からいかに他人と異なる個性が美徳と育てられた身としてはこのプロセスを経ないと一日が始まりません。ユニクロの皆さんと現場に出向いたときに気づいたのですが、多くの難民の方には恐らく悩むほどの種類のワードローブはなくとも、おしゃれをして自己表現できる現実があることを知りました。衣類を手渡す式典や写真撮影を伴う難民再登録の際に鮮やかな衣類に身をまとい、精一杯のおめかしをする。明るく日本からの心をお届けする訪問者を歓待する難民の皆さんの笑顔は、受け渡しに至るまでのハードルを忘れさせる素晴らしい瞬間でした。

 ネパール、ベルダンギ第一キャンプ。
 日本からの善意を胸に笑顔のブータン難民女性。
 写真提供:上岡伸輔

同時開催にて支援現場で利用するテントや現場で行われる活動を疑似体験できるイベントや、共生のテーマに従い、コロンビアの国内避難民やネパールのブータン難民とのスポーツ (バレーボール) を通じた活動などを綴った写真展も UN ギャラリーで開催します。私たちと同じフリースを着た難民の笑顔を日本に持ち帰らせていただきました。写真展で併せぜひご覧下さい。

http://www.unhcr.or.jp/event/2007/wrd2007.html

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第 6 回 スーダン

UNHCR スーダン・ザレンジ事務所 保護官  帯刀豊 (たてわき ゆたか)

「ダルフール」という地名をご存知でしょうか?アフリカのスーダンという国の西に位置し、ほぼフランスに匹敵する広大な土地を占め、古くからアフリカ系住民とアラブ系住民が混在して暮らす地域です。2003 年にアフリカ系住民からなるグループがアラブ主導の政府に反旗を翻して内戦が始まって以来、200 万人にも及ぶ人々が土地を追われ、或いは多くの人々が逃げることもままならず、虐殺の犠牲となりました。未だに内戦終結の目処が経っておらず、アフリカ系住民に対する、同地での許しがたい虐殺、略奪、女性や子供への暴虐の限りは、連日、新聞や TV で報道されている通りです。私が 2006 年 12 月以来、難民保護官として赴任しているダルフールとはそういうところです。

 平和構築ワークショップに参加したダルフール地域の国内避難民 (IDP) と筆者
 © UNHCR / Y.Tatewaki

さて、人々が国境を越え、隣の国チャドへと逃げれば、彼等は「難民」となるのですが、ダルフールの内にとどまっている限り、彼等は「国内避難民」として扱われます。現在、ダルフールの土地には 200 万人ほどの国内避難民が国際社会の支援を頼りに、不安と恐れのなか日々暮らしています。UNHCR は 2004 年以来、ダルフールでの国内避難民の保護・支援を行う中核機関として活動を行っています。私が赴任しているザレンジという地域の事務所は、UNHCR が現在ダルフールに構えている 5 つの事務所のうちの一つです。ザレンジでは、私を含め 4 人の海外スタッフと、10 名弱のスーダン人スタッフからなるチームが、10 万人を越える国内避難民の保護・支援を行っています。

 ザリンジ近辺で国内避難民 (IDP) が生活する「家」
 © UNHCR / Y.Tatewaki

ザレンジでは殆どの国内避難民が、5 つあるキャンプのうちのいずれかで暮らしています。キャンプでは、取るものもとりあえず命からがら逃げてきた人々が、粗末な藁葺きの小屋で、周囲から掻き集めた僅かばかりの食糧と水を頼りに暮らす姿を目にします。ザレンジでは UNHCR を除いても 10 を超える国連機関、NGO が人道支援を行っているのですが、連日のように数十、数百の国内避難民の家族がキャンプに押し寄せているなか、なかなか全ての国内避難民に迅速に支援が行き届いていないのが現状です。というのは、まずキャンプに辿りついた人々の数に比べ、支援物資の蓄えが足りていないということが多くあります。更には、各々の支援機関がそれぞれ行う支援について、対象となる人々の基準を持っており、基準に照らし支援を行うか否かを決めるまでに数週間、時には数ヶ月かかるということもあるからです。UNHCR は、こうしたギャップに苦しむ国内避難民にとっての 'ラスト・リゾート' になることをその大事な任務の一つとしています。つまり、本当に困っている人に必要な支援が遅滞なく届くよう、UNHCR 自ら、プラスティック・シートやマット、キッチン・セット等、生活必需品を直接、国内避難民に配っているのです。時に、一度の配給でその数は数千に及びます。UNHCR は最近、ザレンジにある全てのキャンプの中に、小さな駐在所を設けました。国連機関では初の試みです。'ラスト・リゾート' としての役割を果たすべく、常にキャンプ内の人々の生活に目を光らせておく、というのがその理由です。

 ザリンジ近辺の学校の子供達
 © UNHCR / Y.Tatewaki

物資支援以上に難しい問題として、キャンプ内での国内避難民の保護・治安確保があります。ザレンジのキャンプで暮らす国内避難民の大多数は政治的理由からアラブ系政府に強く反発しており、昨年締結されたダルフール平和合意を全く受け入れていません。平和合意を蹴って未だに反政府闘争を行っている主要グループのリーダーもこの地域の出身です。国内避難民は、いかなる形でも政府関係者がキャンプ内に入ることを受け入れません。地元の警察もしかりです。アフリカ連合の治安部隊も近くに駐留しているのですが、政府との関係を疑われてやはりキャンプ内で活動することができません。こうして、有効な強制力を以ってキャンプ内で実際に治安維持に当たっている者がいなくなるなか、アフリカ系の国内避難民に対する民族的な嫌悪からくる暴力、女性や子供など弱者に対する卑劣な犯罪がキャンプ内で後を絶ちません。UNHCR は国内避難民の保護を主要任務としていますが、実際に銃を片手に治安を取り締まることはできません。それは政府の警察の仕事であり、国際治安部隊の仕事です。UNHCR としては、政府の治安関係者や国際治安部隊と粘り強く交渉し、国内避難民とも直接対話を継続しながら、有効な保護・治安確保が維持できるよう尽力しています。UNHCR は、政府関係者や国際治安部隊に対し、国内避難民の保護に関するレクチャー、トレーニングを行い、国内避難民自身に対しては、平和的な関係構築、争いの平和的解決のためのワークショップを随時、行っています。支援物資の配給と異なり、こうした活動の成果はすぐには目に見えづらいものですが、しかし UNHCR には世界中でそれをやり遂げてきた経験と自負があります。今が我慢のしどころです。

 母親と子供達
 © UNHCR / Y.Tatewaki

難民保護官である私はといえば、上記の任務を胸に、仕事の時間の三分の一をキャンプ内で国内避難民とともに過ごし、三分の一を政府関係者、国際治安部隊との交渉、意見交換にあて、残りの三分の一で他の国連機関、NGO とともに、国内避難民に対する保護・支援に無駄、漏れがないよう、必要な調整を行います。さて、私が着任してまだ間もないころ、キャンプで私を見かけた子供たちは一様に控えめに手を振るだけだったように記憶しているのですが、最近では、親指をぐっと空に突き立てて、力強く微笑みかけてくる子供を多く見かけます。それが、「一緒にやっていこう」という気持ちの表れであり、或いは子供たちが自身を取り戻しつつあることを示しているのであれば、これに勝る喜びはありません。彼らの声が日本にも届けばと、そう思います。

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